竹内貴久雄著「クラシック幻盤 偏執譜」を読んで(yamaha 2012年7月)2013年09月07日 05時40分

今池ちくさ正文館書店でふと手に取った本・・・これが10年以上前の記憶を呼び覚ますことになろうとは・・・

クラシック幻盤 偏執譜
竹内貴久雄 著(yamaha 2012年7月)


ふと手に取って、読んだらなかなか面白かったので、購入して自宅でゆっくり読んでみると・・・次の項目を読んで驚いてしまった・・・

 第3章 指揮者たちのカレイドスコープ
 -20世紀演奏のクリップボード・第一
  ユージン・オーマンディ
  ロマン派の終焉を予感する「自意識の不可思議な欠落」


・・・なんとも懐かしい!というか・・・

事の発端?は「名指揮者120人のコレを聴け!」(洋泉社 1996年)の竹内貴久雄氏によるOrmandy紹介記事。これを読んだ私は全く納得することが出来ず、自身のホームページに下記の文章を記載した。こちらのブログの方がアクセスしやすいので、当時の記事をそのまま再掲します。但し、誤字や氏の名前の誤りは訂正してあります。名前の誤りはこちらの失態であり、申し訳無いことで、お詫び致します。(氏の本を読んで、氏のブログの存在に初めて気が付き、アクセスしてようやく氏の名前を誤記していることに気が付きました。記事を書いてから10年以上経過して・・・なんともお恥ずかしい次第で・・・)

-------------再掲ここから-------------

・「名指揮者120人のコレを聴け!」を読んで

  洋泉社より出版されている「名指揮者120人のコレを聴け!」の竹内貴久雄氏のOrmandyの記事を読んで、どうにも納得のいかない内容に疑問を抱いております。

  Ormandyを理解するキーワードとして、

  「指揮者になりたくなかった指揮者」
  「全員参加、全会一致の音楽」

  とあり、さらに特記事項として

  「細部への執着は、楽員に順番に出番を回そうとする気配りから?」

とありますが、冗談にしてもこれはなんと言えば良いのか・・・。確かに、Ormandyは天才ヴァイオリニストとしてアメリカに渡って、本人の意志とは無関係に指揮者のスタートを切りましたが、それはスタートのみの話であり、指揮者として身を立ててからは、

  「私は指揮者以外のものになりたくなかったから、指揮者になったのである」

と言うほどに指揮者を天職として考えていた訳ですし、

  「私は個性的なアプローチを尊ぶが、演奏は結局、指揮者の解釈である。楽員は指揮者の楽器であり、最後の目標は統一とチームワークでなければならない」

  「私は、民主的な独裁者です」

との彼自身の指揮者についての考えを示す言葉を無視して、「全員参加、全会一致の音楽」・「細部への執着は、楽員に順番に・・」というのは、全く的外れな評価だと思いまが・・・・


  「・・・チャイコフスキーの交響曲は、サウンドのまとまりは良いものの、いったい何を伝えたいのかがわからない。それぞれのパートがどれも等距離に置かれていて、楽員が公平に分担しているといった不思議な風情をもった演奏だ。内声部が良く鳴っている演奏というのとも違う。だれにでも多少はある特定の音への偏愛、こだわりがオーマンディにはないのは、なぜだろうか?オーマンディはひたすら黙々と、淡々と、指揮を続けている。・・・」

  「・・・《新世界交響曲》は、CBSのステレオ録音はオーマンディでは例外的にフィラデルフィア管を離れてロンドン響との録音だが、その後のRCAへの復帰後にフィラデルフィア管と録音している演奏ともども、判で押したように、デビュー録音のころと同じに妙にオーケストラの各パートが等価に響く演奏だ。・・・」

  率直なところ、竹内氏はOrmandyのことには関心・興味が殆ど無い(あるいは殆ど知らない)方だと思います。1936年の philadelphia orchestra の共同指揮者に就任したばかりの古いSP録音や1967年のロンドン響との録音(オーケストラがストライキしていた時の録音)等、Ormandyの大量の録音のなかでもかなり特殊な部類の録音を引っ張り出して論評するということ自体がそれを示しています。

  「・・・だれにでも多少はある特定の音への偏愛、こだわりがオーマンディにはないのは、なぜだろうか?・・・」

  Ormandyのサウンドは常に弦楽器を主体としており、上記の評論は完全に的外れなものです。BMG/RCAのProducer,Jay David Saks氏は下記の通り語っています。(日BMGジャパン BVCC-38060 のブックレットより引用)

  「彼の作り出すサウンドは独特で、いつも弦が中心で、木管や金管は必要なときに重要なパートが聞こえてくればいい、というものでした。たとえば、彼はホルンを嫌っていました。いつも小さく、小さく演奏させるようにしていました。『セルがよく「トロンボーンは見えればいい。聞こえなくてもいいのだ」と言っていた。私はホルンについても同じだと思う。』と良くいっていました。オーマンディ・サウンド、それはなんと言っても、途方もなく大きな、美しい弦の音なのです。」

  「・・・《新世界交響曲》は・・・判で押したように、デビュー録音のころと同じに妙にオーケストラの各パートが等価に響く演奏だ。・・・」

  ???理解不能です。??? 各パートが等価に響く??? 1967年のロンドン響はかなり特殊な事情での録音であり、これでOrmandyという指揮者を論評するのは問題があると思いますが、この録音はかなりオンマイクでバランスもかなり操作されています。Balance Engineer により、スコアで埋もれそうな音をかなり作為的に持ち上げているのが分かります。弦の音が力強く(単に録音上のレベルでの話では無く)聞こえるのは、オーマンディのボウイング指示による所が大きいでしょう。もう一方のRCAの録音はかなり自然なバランスが保たれていますが、一聴して分かるのは管の音をぐっと押さえ込んで弦の厚みをより前面に押し出していることです。他の演奏と聴き比べれば一聴瞭然です。「各パートが等価に響く」などとは、演奏をろくに聴いていない証拠です。

  1978.6.7の吉田秀和氏の ormandy/philadelphia 来日演奏会の評で、

  「・・・ブラームス『ハイドン変奏曲』では、あまりにすべての声部が平等に良く鳴りすぎ、とかく焦点のはっきりしない音楽になりがちだった(1978年6月1日・神奈川県民ホール)」
  - 音楽 展望と批評3 吉田秀和(朝日文庫)

  というのを読んだことがありますが、竹内氏は初めにこの結論ありきで紹介記事を書かれたのではないでしょうか?この記事を読んで「オーマンディ」を聴きたい、と思う方は余程の物好きでしょう。(2001.9.15)


-------------再掲ここまで-------------

そう、10年以上前、こんなこと書いていたんですなあ・・・

クラシック幻盤 偏執譜」のオーマンディの項(p.156)に、この洋泉社の本の記事に関して、

「オーマンディ問題」 -ことの発端についての覚書
 「ユージン・オーマンディ」のファンの方が、前記(注:洋泉社の本の記事の再録)の「オーマンディ論」に立腹なさっていました。少々誤解もなさっているようなので一言。・・・


とあり、驚いてしまった。ほぼ間違い無く、こりゃあ私のことだなあ・・・と。氏の言われる私の「誤解」については、「クラシック幻盤 偏執譜」を読んで頂くか、氏の下記ブログ記事を読んで頂くのが良いだろう。

竹内貴久雄の音楽室
氏の言われる私の「誤解」については、氏の仰る通りであり、これは全く申し訳無い事で、この場を借りてお詫びします。但し、当時の記事の趣旨や私の意図は今も変わりませんが・・・

この件に関して、恐らく私と氏の主張は平行線のままで交わることはないでしょう。でも、それはそれで良いかと。一人の指揮者の遺した演奏を聴いて、インタビュー記事を読んで、此程までに異なる考え方・見方、そして結論?がある・・・実に愉快ではありませんか。

この「オーマンディ問題」について興味のある方は、1968年初来日時の評論や、舟山隆氏「鏡の中の音像 - オーマンディ=フィラデルフィア管弦楽団」(1978年来日時のパンフレットに掲載)を読まれると良いでしょう。あとは吉田秀和氏の評論ですかね。

ちなみに、現在、私自身はこの「オーマンディ問題」に殆ど感心がありません。「クラシック幻盤 偏執譜」を読んで思い出したくらいです。既に、オーマンディ&フィラデルフィアの主要な録音は殆どCDなりオンラインで聴ける状況であり、「聴いて判断して下さい」というのが私の率直な想いです。

あと、付け加えるならば、「貴方の耳と感性は貴方のものであり、音楽評論家のそれにとって変えることは出来ないものですよ」・・・というところですか・・・ね。

最後に、「クラシック幻盤 偏執譜」はなかなか面白いですよ。「クラシック・スナイパー」(1~8まで 青弓社より)の氏の記事も興味深く読みました。ご参考まで。

では。